賀川豊彦と
関東大震災
「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」実行委員会について
今年2023年は、関東大震災から100年を迎えます。当時神戸で活動していた賀川豊彦は、関東大震災の知らせを聞くと、すぐに東京へと向かい、現地の惨状を実際に目で見てからその対応を始めました。関西、四国、九州にまで出かけて義捐金や布団、材木を集めて東京へ送りました。また10月には東京の本所へと移り住み、若きボランティアたちとともに、セツルメント活動を開始しました。住む場所を失った人へバラックを提供し、児童の一時預かり所を開設し、また悲嘆にくれる人々への傾聴活動などを行いました。
やがて、賀川たちの活動はボランティアから、社会事業へと発展して、消費組合、信用組合、家政学校、寮の運営、さらに組合病院を設立に至ります。
この度、これらの賀川の活動を振り返り、今日の私たちが平時から災害などの時に備えるため、多様なつながりを結びあう機会とするために、実行委員会を結成しました。是非趣意書をご覧頂き、また各種のコンテンツの視聴、およびイベントへのご参加をお待ちしております。
最新情報
ダウンロードはこちら 「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」事務局 |
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この度刊行されました『賀川豊彦と考えるボランティア』におきまして、誤りがございました。 |
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去る9月2日(土)日本基督教団銀座教会にて開催された、特別展関連講演会の動画を配信致します。期間限定ですので是非ご覧下さい。 https://youtu.be/EF94fKRQn8Q |
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お知らせ
- 2023/10/13
- Good Jov TV にて、関東大震災と賀川豊彦が放映されました。
- 2023/10/11
- NHKアーカイブズ 災害特集に賀川の記事が掲載されました。
- 2023/10/02
- キックオフ集会での、共同実行委員長および顧問からのスピーチ動画を掲載しました。
- 2023/09/13
- 防災街歩きを開催しました。
- 2023/09/04
- 関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア 関連企画
パネル展 賀川豊彦と関東大震災~ボランティアの始まり~のお知らせ - 2023/08
- ネットワーク 385号(2023年8月号)で関東大震災が特集されました。ダウンロードして読めます。
- 2023/08/31
- キックオフ集会が開催されました。
- 2023/08/30
- サイトを開設しました
賀川豊彦について
スラム街での救貧事業からはじまり、労働組合、農民組合、協同組合、平和運動、そして日本初のミリオンセラー作家…
幅広い賀川の活動を貫いたのは隣人愛に基づく、助け合いの精神と行動でした。
賀川豊彦は若き日、神戸のスラムに身を投じて貧しい人々の救済に専念しました。壮年時代には、労働組合運動、農民運動、協同組合運動、無産政党樹立運動に献身し、関東大震災が発生するや、東京にて、罹災者救済やセルツメント事業に力を尽くしました。 また生涯を通じて日本と世界にキリスト教の伝道を行い、戦後は伝道と著作のかたわら世界連邦運動を提唱、指導しました。
これらの諸活動を継続する間に宗教、哲学、経済、社会、文明批評、随筆、小説等の作品を多数発表しました。それらは、彼の死後「賀川豊彦全集」全24 巻として刊行されています。 彼の事業は関西、関東を始め全国に亘り数多くの同志を組織して行われ、その運動は広範な規模において展開されました。
「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」実行委員会制作アニメーション
「震災ボランティアの先駆者 賀川豊彦」
賀川豊彦年表
年 | 年齢 | 月日 | 事項 | 関係事項 | |
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西暦 | 和暦 | ||||
1888 | 明治21年 | 0 | 7月10日 | 賀川純一(40歳)と徳島の芸者、菅生かめの二男として神戸市兵庫島上町108番屋敷で誕生 | |
1989 | 明治22年 | 1 | 大日本帝国憲法発布 | ||
1892 | 明治25年 | 4 | 11月 | 父 純一 赤痢で死す(没44歳) | |
1893 | 明治26年 | 5 | 1月 | 実母 菅生かめ 死す | |
1893 | 明治26年 | 5 | 1月 | 姉 栄と共に徳島の本家にひきとられる | |
1893 | 明治26年 | 5 | 4月 | 徳島県板野郡堀江村第二堀江尋常小学校に入学 | |
1900 | 明治33年 | 12 | 4月 | 県立徳島中学校に入学し、寄宿舎にはいる | |
1901 | 明治34年 | 13 | 胸部疾患の診断をうける | キリスト教徒を中心として「社会民主党」結党、即日結社禁止 | |
1901 | 明治34年 | 13 | 大挙伝道開始され、キリスト教の教勢ようやく振う | ||
1902 | 明治35年 | 14 | 宣教師C・A・ローガンに英語を学ぶ | ||
1903 | 明治36年 | 15 | 4月 | 賀川家破産、叔父 森六兵衛の家に移る | 幸徳秋水、堺枯川、内村鑑三、非戦論を唱えて万朝報社を退社、幸徳、堺、平民社を組織『平民新聞』を発刊 藤村操、人生問題に悩み自殺、この頃から個人主義の風潮広まる |
1904 | 明治37年 | 16 | 2月21日 | 宣教師H・W・マヤス博士より洗礼を受ける | |
1904 | 明治37年 | 16 | 安部磯雄、木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚える | ||
1905 | 明治38年 | 17 | 3月 | 徳島中学校を卒業する | 木下尚江、石川三四郎らキリスト教社会主義の機関紙『新紀元』創刊 |
1905 | 明治38年 | 17 | 4月 | 明治学院高等部神学予科に入学する | |
1907 | 明治40年 | 19 | 3月 | 神戸神学校新設により転校をきめ、9月開校まで愛知県岡崎教会、豊橋教会で伝道を手伝う | 社会主義者合同して日刊「平民新聞」創刊 |
1907 | 明治40年 | 19 | 8月 | 路傍伝道を続け、41日目発熱喀血し危篤となる | |
1907 | 明治40年 | 19 | 9月 | 喀血甚しく4か月入院する | |
1908 | 明治41年 | 20 | 1月 | 三河の蒲郡、府相で9か月保養する。『鳩の真似』(後の『死線を越えて』)の執筆をはじめる | |
1908 | 明治41年 | 20 | 10月 | 神戸神学校に復校 | |
1908 | 明治41年 | 20 | 11月 | 結核性痔瘻の手術を京都帝国大病院で受ける | |
1909 | 明治42年 | 21 | 苦悩の日々続く | ||
1909 | 明治42年 | 21 | 9月 | 神戸葺合新川で路傍伝道を始める | |
1909 | 明治42年 | 21 | 12月24日 | 貧民窟(神戸市葺合区北本町6丁目221番地)に入る | |
1910 | 明治43年 | 22 | 大逆事件おこる | ||
1911 | 明治44年 | 23 | 4月 | 日本基督教会より伝道師の准允を受く | |
1911 | 明治44年 | 23 | 6月 | 神戸神学校卒業 | |
1912 | 明治45年 大正1年 |
24 | 11月 | 貧民窟内に一膳飯屋『天国屋』を開業 | 神仏基三教会同 鈴木文治ら労働組合友愛会組織 |
1913 | 大正2年 | 25 | 4月 | 和歌山市で開催の日本基督教会浪速中会で教師試験に合格 | |
1913 | 大正2年 | 25 | 5月27日 | 神戸日本基督教会で芝はる(25歳)と結婚 | |
1913 | 大正2年 | 25 | 12月 | 『基督伝論争史』を出版(福音舎) | |
1914 | 大正3年 | 26 | 8月 | プリンストン大学及びプリンストン神学校へ入学のため丹波丸で神戸出帆 | 第一次世界大戦勃発 全国協同伝道始まる(~大正6年) |
1914 | 大正3年 | 26 | 9月 | 夫人はる横浜の共立女子神学校に入学 | |
1915 | 大正4年 | 27 | 実験心理学の論文でプリンストン大学よりM・Aのクレジットを受く | ||
1915 | 大正4年 | 27 | 11月 | 『貧民心理の研究』を警醒社より出版 | |
1916 | 大正5年 | 28 | 5月 | プリンストン神学校よりB・Dの学位をうける | 吉野作造、民本主義提唱、これより「大正デモクラシー」運動おこる |
1916 | 大正5年 | 28 | 8月 | ニューヨークの貧民窟を視察、労働者の示威運動を見て日本における労働組合の設立を思う | |
1916 | 大正5年 | 28 | 10月 | 帰国の旅費かせぎのためにユタ州オグデンの日本人会の書記に就職する | |
1917 | 大正6年 | 29 | 3月 | 雇主の横暴に抗し、日本人農夫とモルモン教徒との小作人組合を作り、争議を起こし勝利 | ロシア革命勃発、十月革命で共産政権樹立 友愛会神戸連合会・大阪連合会が組織される |
1917 | 大正6年 | 29 | 5月 | 横浜に上陸、神戸新川に帰る | |
1917 | 大正6年 | 29 | 6月 | 夫人はる、共立女子神学校を卒業 | |
1917 | 大正6年 | 29 | 6月 | 神戸貧民窟で無料巡回診療をはじめる | |
1917 | 大正6年 | 29 | 10月 | 友愛会神戸連合会評議員となる | |
1917 | 大正6年 | 29 | 11月 | 日暮通6丁目に貧民窟授産事業として歯ブラシ工場設立 | |
1918 | 大正7年 | 30 | 4月 | 友愛会創立6周年大会当夜の社会政策講演会で講演 | 7月~8月 米騒動全国におこる 吉野作造ら「黎明会」結成 東大学生ら新人会を組織 内村鑑三、中田重治、木村清松ら再臨運動開始 |
1918 | 大正7年 | 30 | 5月 | 友愛会葺合支部長に推薦される | |
1918 | 大正7年 | 30 | 8月 | 神戸連合会機関紙『新神戸』の発刊を計画、促進し、その編集顧問となる | |
1919 | 大正8年 | 31 | 3月 | 大阪中ノ島公会堂における治安警察法第十七条撤廃大演説会で講演 | 全国に普選運動起る 友愛会8月の七周年大会で大日本労働総同盟友愛会と改称、労働運動の中核体としての組織を確立する |
1919 | 大正8年 | 31 | 3月 | 『新神戸』を関西の労働運動の機関紙とするため『労働者新聞』に改題、その発行人となる | |
1919 | 大正8年 | 31 | 4月 | 日本基督教会より教師の按手礼を受く | |
1919 | 大正8年 | 31 | 4月 | 鈴木文治、久留弘三らと友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となる | |
1919 | 大正8年 | 31 | 8月 | 改組された大日本労働総同盟友愛会の中央委員となる | |
1919 | 大正8年 | 31 | 6月 | 『精神運動と社会運動』を警醒社より出版 | |
1919 | 大正8年 | 31 | 11月 | 『涙の二等分』を福永書店より出版 | |
1919 | 大正8年 | 31 | 11月 | 『労働者崇拝論』を福永書店より出版、発売禁止となる | |
1920 | 大正9年 | 32 | 1月~2月 | 大阪市で普選大示威運動 | 上野公園で日本最初のメーデー奉行(5月) 戦後恐慌おこる |
1920 | 大正9年 | 32 | 5月 | 大阪伸銅工組合新進会組合長に推さる | |
1920 | 大正9年 | 32 | 6月 | 大阪印刷工革新同志会会長に推さる | |
1920 | 大正9年 | 32 | 8月 | 中国(上海付近)に講演旅行 | |
1920 | 大正9年 | 32 | 8月 | 大阪市に有限責任購買組合共益社を設立、理事となる | |
1920 | 大正9年 | 32 | 10月 | 有限責任神戸購買組合を創設し、理事となる | |
1920 | 大正9年 | 32 | 10月 | 大阪天王寺公会堂における友愛会八周年大会で関東派と関西派の対立激化する | |
1920 | 大正9年 | 32 | 12月 | 播磨造船労働組合結成、組合長となる | |
1920 | 大正9年 | 32 | 4月 | 『人間苦と人間建築』を警醒社より出版 | |
1920 | 大正9年 | 32 | 6月 | 『主観経済の原理』を福永書店より出版 | |
1920 | 大正9年 | 32 | 10月 | 『死線を越えて』を改造社より出版 | |
1920 | 大正9年 | 32 | 10月 | 『地殻を破って』を福永書店より出版 | |
1921 | 大正10年 | 33 | 6月 | 大阪連合会より藤永田造船争議について団体交渉権問題で知事、造船所長に決議文を送り賀川は会社側と折衝 | 日本労働総同盟友愛会を日本労働総同盟と改称 労働運動におけるサンジカリズムの勢力が増大する |
1921 | 大正10年 | 33 | 6月 | 住友電線及び製鋼両工場の争議応援の先頭に立つ | |
1921 | 大正10年 | 33 | 6月 | 川崎・三菱造船所に争議おこり、実行委員となる | |
1921 | 大正10年 | 33 | 7月4日 | 神戸湊川勧業館において神戸労働組合連合大会を開催、『労働組合の確認を要求す』を決議、交渉委員に推される | |
1921 | 大正10年 | 33 | 7月18日 | 川崎、三菱造船争議激化し争議戦術に関し賀川は『工場管理について』を発表 | |
1921 | 大正10年 | 33 | 7月29日 | 川崎争議団1万3千人、賀川を先頭に示威運動、川崎造船所前で警官と衝突、負傷者出る、同夜川崎争議団本部、神戸友愛会本部警官隊に襲われ、賀川以下幹部検束される | |
1921 | 大正10年 | 33 | 8月10日 | 証拠不十分として午後9時20分、橘分監裏門より出される | |
1921 | 大正10年 | 33 | 10月3日 | 友愛会創立十年記念大会東京に開かれ中央委員となる | |
1921 | 大正10年 | 33 | 10月5日 | 奈良菊水楼で日本基督教会教職者会を開催、『イエスの友会』を結成 | |
1921 | 大正10年 | 33 | 10月17日 | 日本農民組合を杉山元治郎、村島帰之、小川渙三らと結成 | |
1921 | 大正10年 | 33 | 6月 | 『自由組合論』を警醒社より出版 | |
1921 | 大正10年 | 33 | 12月 | 『イエスの宗教とその真理』を警醒社より出版 | |
1922 | 大正11年 | 34 | 1月 | イエスの友会の機関誌『雲の柱』発刊、事実上賀川の個人雑誌となる | 水平社結成 日本共産党結成 全国基督教協議会開かれ基督教連盟設立決定 |
1922 | 大正11年 | 34 | 1月 | 日本農民組合機関誌『土地と自由』を創刊 | |
1922 | 大正11年 | 34 | 2月 | 夫人はるを同伴、台湾に伝道 | |
1922 | 大正11年 | 34 | 3月 | 新川で暴徒に襲われ、前歯2本を折る | |
1922 | 大正11年 | 34 | 4月9日 | 神戸YMCAで農民組合創立大会開く | |
1922 | 大正11年 | 34 | 6月1日 | 大阪市安治川基督教会で大阪労働学校を開校、校長となる | |
1922 | 大正11年 | 34 | 8月 | 国際労働会議の代表者に選出されたが辞退 | |
1922 | 大正11年 | 34 | 12月 | 長男純基生まれる | |
1922 | 大正11年 | 34 | 5月 | 『星より星への通路』を改造社より出版 | |
1922 | 大正11年 | 34 | 11月 | 『生存競争の哲学』を改造社より出版 | |
1923 | 大正12年 | 35 | 1月 | 水平社の依頼で全国講演 | 関東大震災(9月1日) 大杉栄 甘粕憲兵大尉に殺さる 日本基督教連盟成立 |
1923 | 大正12年 | 35 | 1月 | トラホーム悪化 | |
1923 | 大正12年 | 35 | 4月 | 眼病悪化し大阪北浜の有沢眼科病院に入院 | |
1923 | 大正12年 | 35 | 8月25日~29日 | 御殿場東山荘でイエスの友会第一回修養会を開催 | |
1923 | 大正12年 | 35 | 9月4日 | 関東大震災救援のため山城丸で横浜に上陸する | |
1923 | 大正12年 | 35 | 10月 | 東京市本所区松倉町にテントを張り救済運動をはじめ、本所基督教青年会を設立 | |
1923 | 大正12年 | 35 | 10月 | 家族全員本所松倉町に移住 | |
1923 | 大正12年 | 35 | 5月 | 『イエスと人類愛の内容』を警醒社より出版 | |
1924 | 大正13年 | 36 | 3月 | 眼病悪化 急性腎臓炎を患う | 小作調停法成立 高倉徳太郎帰朝、弁証法神学を紹介 |
1924 | 大正13年 | 36 | 4月 | 東京市外松沢村に移住 | |
1924 | 大正13年 | 36 | 6月 | 政治研究会設立され執行委員となる | |
1924 | 大正13年 | 36 | 11月 | 全アメリカ大学連盟の招きをうけ横浜より乗船渡米、イギリス、フランス、デンマーク等を経て、聖地を巡礼、八カ月の旅を終わり翌1925年7月 神戸に帰る | |
1924 | 大正13年 | 36 | 2月 | 『苦難に対する態度』を警醒社より出版 | |
1924 | 大正13年 | 36 | 12月 | 『壁の声きく時』を改造社より出版 | |
1925 | 大正14年 | 37 | 6月10日 | 日本救癩教会(日本MTL)設立 | 治安維持法、普通選挙法成立公布 農民労働党結成、即日解散 総同盟分裂し、左派は日本労働組合評議会結成 |
1925 | 大正14年 | 37 | 7月30日 | 東山荘でイエスの友会第三回修養会開催、『百万の霊を神に捧ぐ』を決議 | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 2月 | 大阪紡織労組発会、組合長となる | 日本農民組合中心となり3月労働農民党を結成、左右の対立激化し年末には左派優勢となる 右派分裂し社会民衆党を結成(12月) 中間派 日本労働党を結成(12月) 新潟県木崎村で小学校児童盟休事件 |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 3月 | 大阪YMCAで労働農民党結成、中央執行委員となる | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 3月 | 鳥取県米子の日本農民組合の講演会で検束され一時間半ほど留置される | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 4月 | トラホーム悪化、失明状態となる | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 5月 | 安部磯雄、末弘厳太郎らと東京学生消費組合を設立 | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 6月 | 新潟県北蒲原郡木崎村の小作争議激化し、組合側の作った無産農民小学校の校長に推さる | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 10月 | 家族と共に兵庫県武庫郡瓦木村高木東口に移る | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 11月 | 『神の国運動』を開始 | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 7月 | 『神による解放』を警醒社より出版 | |
1926 | 大正15年 昭和元年 |
38 | 12月 | 『暗中隻語』を春秋社より出版 | |
1927 | 昭和2年 | 39 | 2月 | 自宅で農民福音学校を一ヶ月間開催 | 金融恐慌起こる 普選最初の府県会議員選挙 高倉徳太郎『福音的基督教』刊行 |
1927 | 昭和2年 | 39 | 4月 | 江東消費組合を設立 | |
1927 | 昭和2年 | 39 | 8月 | 軽井沢で百万人救霊運動協議会開催 | |
1927 | 昭和2年 | 39 | 10月 | 『キリスト山上の垂訓』を日曜世界社より出版 | |
1928 | 昭和3年 | 40 | 6月 | 庶民のための金融機関として中ノ郷質庫信用組合認可される | 最初の衆議院選挙、無産政党8名当選、日本共産党員大検挙(三・一五事件) 労農党、日本労組評議会など結社禁止 基督教連盟、社会信条を発表 |
1928 | 昭和3年 | 40 | 7月 | 全国伝道に出る | |
1928 | 昭和3年 | 40 | 10月 | 全国非戦同盟を作る | |
1928 | 昭和3年 | 40 | 11月 | 満洲伝道に黒田四郎と出発 | |
1929 | 昭和4年 | 41 | 7月 | 東京市長堀切善次郎より社会局長就任を懇請されたが辞退、嘱託となる | 宣教70年記念大会開く 教化総動員運動開始 世界大恐慌起こる |
1929 | 昭和4年 | 41 | 11月 | 宣教開始七十年記念・神の国運動宣言・信徒大会を日比谷公会堂で開催 | |
1929 | 昭和4年 | 41 | 11月 | 瓦木村より東京市外松沢村にふたたび移転 | |
1929 | 昭和4年 | 41 | 5月 | 『殉教の血を承継ぐもの』を日曜世界社より出版 | |
1929 | 昭和4年 | 41 | 8月 | 『神による新生』を福音書館より出版 | |
1930 | 昭和5年 | 42 | 1月 | 肺炎から腎臓炎を併発、自宅で静養 | 全国大衆党創立 失業問題深刻化す 大豊作で米価大暴落、農村の危機急迫 基督教学生社会主義運動(SCM)起こる |
1930 | 昭和5年 | 42 | 5月 | 東京市社会局嘱託を辞す | |
1930 | 昭和5年 | 42 | 7月 | 中国伝道に出発、8月帰国 | |
1930 | 昭和5年 | 42 | 6月 | 『神に就いての瞑想』を教文館より出版 | |
1931 | 昭和6年 | 43 | 1月 | 中国伝道に出発 | |
1931 | 昭和6年 | 43 | 7月 | カナダのトロントで開催の世界YMCA大会の招きで出発、11月帰国 | |
1931 | 昭和6年 | 43 | 2月 | 小説『一粒の麦』を講談社より出版 | |
1931 | 昭和6年 | 43 | 6月 | 『十字架に就ての瞑想』を教文館より出版 | |
1931 | 昭和6年 | 43 | 10月 | 『神と永遠への思慕』を新生社より出版 | |
1932 | 昭和7年 | 44 | 3月 | 台湾伝道に黒田四郎と出発 | |
1932 | 昭和7年 | 44 | 12月14日 | 宮崎県小林町の集会をもって第一期神の国運動を終わる | |
1932 | 昭和7年 | 44 | 6月 | 『キリストに就ての瞑想』を教文館より出版 | |
1932 | 昭和7年 | 44 | 10月 | 『神と苦難の克服』を実業之日本社より出版 | |
1933 | 昭和8年 | 45 | 12月 | 社会大衆党大会において顧問に推薦される | 日本、国際連盟脱退 国民精神作興運動起こる ドイツにヒトラー内閣誕生 ドイツでニーメラーらを中心として牧師緊急同盟結成され、ドイツ的キリスト者に対抗 |
1933 | 昭和8年 | 45 | 1月 | 『農村社会事業』を日本評論社より出版 | |
1934 | 昭和9年 | 46 | 2月 | フィリピン基督教連盟の招きで伝道に出発 3月帰朝 | |
1934 | 昭和9年 | 46 | 3月 | 『聖霊に就ての瞑想』を教文館より出版 | |
1934 | 昭和9年 | 46 | 4月 | 『医療組合論』を産業組合中央会より出版 | |
1935 | 昭和10年 | 47 | 2月 | オーストラリア建国百年記念伝道におもむき、7月帰国 | |
1935 | 昭和10年 | 47 | 12月 | 米国基督教連盟の招きで渡米 | |
1936 | 昭和11年 | 48 | 7月 | オスローで開催の世界日曜学校連盟大会で講演、この後ノルウェー、スウェーデン、ドイツ、ベルギー、フランス、スイス、パレスチナを巡遊・帰国 | 二・二六事件勃発 |
1937 | 昭和12年 | 49 | 日中戦争勃発 戦時経済体制へ移行 日本基督教連盟「時局に関する宣言」「支那事変に関する声明」を発表 |
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1938 | 昭和13年 | 50 | 4月 | 財団法人『雲柱社』設立 | 国家総動員法公布 メーデー禁止 産業報国運動起こる |
1938 | 昭和13年 | 50 | 5月 | 満洲伝道のため神戸を出発 | |
1938 | 昭和13年 | 50 | 11月 | 印度マドラスにおける世界宣教大会に出発、1939年3月帰国 | |
1938 | 昭和13年 | 50 | 5月 | 『神と贖罪愛の感激』を日曜世界社より出版 | |
1939 | 昭和14年 | 51 | アメリカ日米通商条約廃棄 第二次欧州大戦勃発 宗教団体法成立 |
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1940 | 昭和15年 | 52 | 4月 | 東京学生消費組合、当局の圧迫により解散 | 労働総同盟をはじめとし、労働組合解散 救世軍幹部憲兵隊の捜索を受け「平和の福音」紙型没収、8月解散、救世団となる 紀元二千六百年奉祝全国基督教信徒大会で(青山学院)プロテスタント各派合同を声明 |
1940 | 昭和15年 | 52 | 5月 | 満州伝道のため出発、6月帰京 | |
1940 | 昭和15年 | 52 | 8月 | 松沢教会で『エレミヤ哀歌に学ぶ』を説教、反戦運動嫌疑で渋谷憲兵隊に拘引 | |
1940 | 昭和15年 | 52 | 10月 | 『雲の柱』廃刊 | |
1940 | 昭和15年 | 52 | 4月 | 『産業組合の本質とその進路』を協同組合新聞社より出版 | |
1941 | 昭和16年 | 53 | 4月 | キリスト教平和使節団の一員としてアメリカに出発、8月帰国 | 基督教連盟、米国へ親善使節派遣 日本基督教団成立(6月) 太平洋戦争勃発(12月) |
1942 | 昭和17年 | 54 | 8月 | 満州各地に伝道 | 聖教会、きよめ教会の牧師、信徒に弾圧 |
1943 | 昭和18年 | 55 | 1月 | 『宇宙目的論』の著述に精進 | |
1943 | 昭和18年 | 55 | 5月27日 | 反戦思想、社会主義思想の理由により神戸相生橋署に留置 | |
1943 | 昭和18年 | 55 | 11月3日 | 反戦論的行為ありと東京憲兵隊本部の取り調べを受け、公的な宗教運動困難となる | |
1944 | 昭和19年 | 56 | 5月 | イエスの友会機関紙『火の柱』終刊 | |
1944 | 昭和19年 | 56 | 10月 | 中国に宗教使節として出発、1945年2月帰国 | |
1945 | 昭和20年 | 57 | 8月 | 東久邇宮内閣参与となる | ポツダム宣言受諾(8月14日) 終戦詔勅放送(8月15日) 日本社会党結成 |
1945 | 昭和20年 | 57 | 8月 | 国民総懺悔運動に賛成し、そのための活動をする | |
1945 | 昭和20年 | 57 | 11月2日 | 日比谷公会堂の日本社会党結党式に『社会党万歳』の音頭をとる | |
1945 | 昭和20年 | 57 | 11月 | 日本協同組合同盟を組織、会長となる | |
1946 | 昭和21年 | 58 | 3月 | 貴族院議員に勅選されたが、1944年の中国における言動の責任を問われ登院停止 | 天皇神格否定の詔書公布 日本国憲法公布 日本労働総同盟結成 |
1946 | 昭和21年 | 58 | 4月 | 『キリスト新聞』創刊 | |
1946 | 昭和21年 | 58 | 6月 | 新日本建設キリスト運動を宣言、講師となる | |
1947 | 昭和22年 | 59 | 7月 | 全国農民組合長に推される | |
1947 | 昭和22年 | 59 | 11月 | 『新協同組合要論』を日本協同組合同盟より出版 | |
1949 | 昭和24年 | 61 | 3月 | 新日本建設キリスト運動終わる 全国伝道の決心者三万名を超える | |
1949 | 昭和24年 | 61 | 12月 | 世界宣教協会及び世界基督教教育者協議会特別講師としてイギリスへ出発 西ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーを回り、アメリカをへて1950年12月帰国 | |
1950 | 昭和25年 | 62 | 朝鮮戦争勃発 | ||
1952 | 昭和27年 | 64 | 6月~7月 | 沖縄伝道 | |
1952 | 昭和27年 | 64 | 11月 | 世界連邦アジア会議を広島で開き、議長となる | |
1953 | 昭和28年 | 65 | 1月 | ブラジル伝道に出発 6月帰国 | |
1954 | 昭和29年 | 66 | 2月 | 世界連邦運動副会長に就任 | |
1954 | 昭和29年 | 66 | 7月 | 世界教会協議会第二回大会に出席のためアメリカに赴き、各地で伝道、10月帰国 | |
1954 | 昭和29年 | 66 | 11月 | 東京で開かれた第二回世界連邦アジア大会議長をつとめる | |
1955 | 昭和30年 | 67 | 2月 | ノーベル平和賞候補者として推薦される | |
1955 | 昭和30年 | 67 | 10月 | 日本社会党統一大会で社会党顧問に選任される | |
1957 | 昭和32年 | 69 | 1月 | タイ国伝道に出発、2月帰国 | |
1957 | 昭和32年 | 69 | 10月 | 京都で開かれた第三回世界連邦アジア大会で議長をつとめる | |
1958 | 昭和33年 | 70 | 1月 | マラヤで開かれた国際協同組合同盟に日本代表として参加 | |
1958 | 昭和33年 | 70 | 6月 | 『宇宙の目的』を毎日新聞社より出版 | |
1958 | 昭和33年 | 70 | 7月 | 『空の鳥に養われて』をキリスト新聞社より出版 | |
1959 | 昭和34年 | 71 | 1月7日 | 関西伝道を終え、四国へ向かう途中で心筋梗塞拡張症でたおれる。3月自宅に帰り養生 | |
1960 | 昭和35年 | 71 | 4月23日 | 上北沢3丁目の自宅にて午後9時13分召天 |
関東大震災と賀川豊彦の記録アーカイブス
ムービー紹介
パネル展 賀川豊彦と関東大震災~ボランティアの始まり~
開催イベントの紹介動画になります。
実行委員会一覧およびリンク先(50音順)
「関東大震災100年事業 賀川豊彦とボランティア」実行委員会 役職者
- 社会福祉法人 イエス団賀川記念館
- 一般社団法人 家の光協会
- 学校法人 雲柱社
- 社会福祉法人 雲柱社
- 公益財団法人 賀川事業団雲柱社
- 認定特定非営利活動法人 賀川豊彦記念・鳴門友愛会
- 公益社団法人 教育文化協会
- 共栄火災海上保険 株式会社
- 株式会社 キリスト新聞社
- 一般社団法人 国際平和協会
- 生活協同組合コープみらい
- 生活クラブ事業連合生活協同組合連合会
- 世界連邦運動協会
- 世界連邦日本国会委員会
- 全国共済農業協同組合連合会
- 全国厚生農業協同組合連合会
- 全国農業協同組合中央会
- 一般社団法人 全国労働金庫協会
- 全国労働者共済生活協同組合連合会
- 東京基督教大学共立基督教研究所
- 東京都生活協同組合連合会
- 東都生活協同組合
- 公益財団法人 東京 YMCA
- 中ノ郷信用組合
- 一般社団法人 日本協同組合連携機構
- 日本基督教団松沢教会
- 日本コープ共済生活協同組合連合会
- 一般社団法人 日本社会連帯機構
- 日本生活協同組合連合会
- 日本労働組合総連合会
- 日本労働組合総連合会東京都連合会
- 日本労働者協同組合連合会
- 公益財団法人 日本 YMCA 同盟
- パルシステム生活協同組合連合会
- 一般財団法人 本所賀川記念館
- 学校法人 明治学院
- 労働者福祉中央協議会
協力団体